新しい展開の沖縄 レンタカー

セクショナリズムが横行すると、ついにはそれが覇権争いにまで発展することさえある。
内紛の大半は足の引っぱり合いである。
国益か、それとも省益優先かふつうの会社なら大抵の場合、社内の職務分掌事項をまとめた冊子が各課ごとに備えつけてある。
その内容は最低でも年一回は見直しがなされる。
各部・課の仕事内容が、十年一日の如く変わらないという、のんびりした時代ではないだけに、形骸化して効果がうすれた仕事は切り捨て、それに代わる新しい仕事を生み出していかなくてはならないからだ。
言うなれば「仕事の棚卸し一覧表」のようなものだ。
ページをめくってみると、実に微に入り細にわたって細分化され、専門化されている。
中にはそこまで明文化しなくてはいけないものかと、つい首をひねりたくなるような事項が明記されていることがある。
社員の行動規範として就業規則があるように、各セクションごとに仕事の受け持ちと責任の範囲を明確にしておくことは必要不可欠なことかもしれない。
しかし職務分掌にとらわれすぎ、ともすると垣根をこしらえてしまう管理職がいる。
職制どころか、若い社員までが中庭に垣根をつくる。
そして上司にむかってこんなことを言ったりする。
「なんで私かそれをやらなくちゃいけないんですか?」と、まるで言いつけられた仕事が月給を上回るものだと言わんばかりである。
「……なら、きみは指示されたこと以外は何もしないというのか!・」そこまで言える管理職ならよいが、たいていは「もう頼まん!」と怒って部下との関係をまずくしている例が多い。
元来、わが国の企業では職務分掌事項が「仕事の請負い明細表」であるかのような固定観念が強い。
長いあいだに身にしみつき、責任範囲のことについては世界でも右に出る者がいないほど真面目に取り組む。
それはそれでよいのだが、反面、何か事が起こると困った事態になる。
「われわれのセクションは、与えられた仕事はきっちりやっているのだから、はたからとやかく言われる筋合いはない」と、そこの部署の責任者がすぐに開き直ったりすることがある。
これがセクショナリズムの根源である。
まず最初に責任を問われないようにしておくことに専念する。
なにもリスクを冒してまで余計なことをする必要はないというわけだ。
そこには、そもそも仕事とは「与えられるものである」という意識に支配されがちな日本人像しかない。
「仕事をつくり、挑戦していく」という積極さや柔軟さに欠ける管理職がいくらでもいる。
伝統ある有名企業にもこのタイプがゴロゴロしている。
口では「チャレンジだ。チェンジしよう」と叫んでいるが、報われることが不確実な仕事には果敢に立ち向かおうとしない幹部のほうが多い。
なぜそうなるのかを突きつめていくと、とどのつまり、人事査定をする際の評価システムに行きつく。
どういうことかといえば、査定は「職務分掌事項に照らして忠実に働き、計画に対して結果はどうであったか」と、そういう視点から評価が決まるのである。
つまり、日常の決まりきった仕事の成果を重点に査定が行われているのである。
しかも仕事の質だけではなく、仕事量までが加点、減点の対象にされることも多い。
このような職場環境からは、間違っても変化や変革は期待できない。
それどころか、いかにして満点をかちとるかということにだけ腐心し、前例主義の踏襲に終わってしまう結果になる。
これでは家業を継いだけれど、先代と同じことしかやらなかったために衰退していく二代目や三代目となんら変わるところがない。
職務分掌が不必要だとまでは言えないが、考え方としては、高度成長期の成功体験を否定した逆転発想に基づくものでなければいけない。
そうでないと職務分掌がセクショナリズムの温床になりかねず、古い人事評価システムがさらにそれを助長することにつながる。
もとよりほとんどの企業ではそのことがわかっている。
だから新しい人事・評価制度に切り替えている。
旧来の固定した分業形態から、個人のスキルやハイポテンシャルを柔軟に引き出させる発想へと脱皮をはかっている。
しかし現実はまだまだセクションごとの厚い壁と、高い垣根が完全に取り払われていない企業が数多く見られる。
「技術の日産」こそ縦割りの象徴これまで述べてきたセクショナリズムの弊害は、なにも日産のことをさしたわけではなく、日本企業特有のものとして解説してみたものである。
では、日産はどうであったかをふりかえれば、おおいにそれがあったと言わざるを得ない。
まさにそれが同社のアイデンティティであった「技術の日産」という言い方に象徴的に現れたといってよい。
モノを造る会社であるからには、研究・技術開発に重きをおくのは当然である。
それをおろそかにするメーカーは、業種を問わず淘汰されていった歴史の教訓は数えきれないほどある。
とくに自動車業界は、いつの時代でも新機軸の先進技術開発にしのぎを削ってきた。
なにも日産だけが突出しているわけではない。
日産と合併した旧プリンスの技術陣にしろ、あるいは長いあいだ日産グループの一員であった富士重工の技術陣にしろ、彼らのプライドたるやパンパなものではなかった。
「技術の日産だって?だったら、それがどうした……」口にこそ出さなかった。
しかし、旧・中島飛行機の流れを汲むプリンスと富士重工のヒコーキ野郎たちには、さしもの日産技術陣も手を焼くほどの自己主張があったと聞く。
同じような独自性は他のどのメーカーにも大なり小なりあって当然である。
では、日産の技術部門で何かセクショナリズムの象徴であったのか、そのことを考えてみる必要があろう。
同社が「技術の日産」を広く一般消費者に向けて訴求したことは、日産車の性能や品質を過大にPRしたわけではないからかまわないだろう。
問題はたった五文字の短いフレーズが、長いあいだに社内で大手を振ってひとり歩きを始めたことにある。
「自分たちは技術的にみて、どこにも負けない良いクルマをつくっているのだ。
当社のクルマにケチをつけるのはクルマを知らない人だ。
ユーザーがなんと言おうが、販売部門は自信を持って売ってほしい」技術陣がこれくらいの自信と誇りを示すのは当然だろう。
べつに傲慢とまでは言えないだろう。
しかしそれが誇張され、歪曲されて流布されるようになったところに日産の失敗があったのではないか。
すなわち、「自分たちはこんなに良いモノをつくっているのに、それが計画どおりに売れないのは、一にも二にも販売部門の責任だ」社内で技術部門が販売部門に責任転嫁しているという噂が、外部にまで流布されるようになったのである。
それくらいならまだしも、「自分たちが造った優秀なクルマを、買わないほうに見る目がないんだ」そこまで曲げて喧伝されてしまった。
まさか、いくらプライドが高いとはいえ、日産マンがそこまで言うわけなどあるはずはない。
技術と販売がいがみ合うことはあっても、買ってくれないユーザーには文句のつけようがないのは当然である。
キャッチボールされた売れない理由連続のヒット商品で笑いが止まらないほど売れるなら、社内で少しくらい技術部門が威張っても、販売部門もそれを容認できるかもしれない。
しかし日産車の場合、そのシェアは過去三十年以上にもわたって低下している。
その間にも「シーマ現象」という流行語が生まれたように、ヒット商品がなかったわけではない。

沖縄 レンタカーのこのような段階でどんな沖縄 レンタカーの題材に取り組ませておけばよいしょうか。
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